2012年10月28日日曜日

読書(競馬?)の秋

 買ったのはもう10年以上も前になるだろうか?つい最近、必要に迫られたこともあり、小室直樹著『日本資本主義崩壊の論理』を2日ほどかけて読み終える。プロテスタントにみられる資本主義の精神は、かつての日本にも存在した。資本主義の精神とは、つまるところ「行動的禁欲」(注1)を意味するわけだが、では、この「行動的禁欲」は日本で一体どのようにして生まれたのか?それを解明しようとしたのが山本七平氏の『日本資本主義の精神』、ひいてはこの本を解説した本書である。

 古来、仏教において救済を得るためには、出家して修業しなければならなかった。これはつまり労働の禁止を意味するわけだが、労働が忙しい農民には、到底、そういった時間は捻出できない。ではどうするか?それを解決したのが江戸時代の思想家であった鈴木正三だというのが本書である。正三は「農業則仏行なり」と主唱する。つまり、農業に従事することが修業そのものであると。仏教において労働が禁じられていた時代、この発想がいかに革命的であったかは想像に難くないでしょう。

 労働が禁じられるとは、それに付随して発生する利潤も否定されるわけだが、農業則仏行であれば、当然、利潤も発生してしまう。そこで、次に必要な手続きが「利潤の正当化」ということである。しかし、これではまだ不十分で、最後に利潤肯定に反対する勢力が必要になる。それによって、利潤は消費[C]には向かわず、投資[I]に向かい拡大再生産される[Y]からである。これが「行動的禁欲」と呼ばれるものの正体である(注2)。

 このように、労働を禁止していた仏教においては、「利潤の正当化」を必要とした。しかし、なぜプロテスタントにおいても同様の手続きを必要としたのか?宗教改革とは、中世カトリック修道院から世俗外的禁欲を引き出したものであるが、これはすなわち「働かざる者食うべからず」(労働の肯定)ということに他ならない。もちろん利潤の追求が禁じられていたことは、時代からいって言うまでもない。では、なにゆえ、改めて「利潤の正当化」をする必要があったのか?(注3)これが今後の研究における1つ目の課題。

 そして、「近代」資本主義が成立した後に、なぜ、「アメリカ病(⊃イギリス病)」といった病気が発生するのか?これらの病気は「行動的禁欲」が無くなった結果生じるわけだが、例えば、日本でこういった病気が発生するのは理解に難くない。なぜなら、鈴木正三以前、仏教において労働というのは、修業とは正反対に位置していたからである。しかし、キリスト教における労働というのは、中世の頃からずっと「行動的禁欲」だった以上、理論的に考えるなら、本来あり得ないことである。(もっとも、今までずっとそうだったから、今後もそうなるという保証はないが・・・)そして、これが2つ目の研究課題。

 ちなみに、谷岡一郎著『ビジネスに生かすギャンブルの鉄則』という本には、本書が“ギャンブル(=投資)を肯定”する本として紹介されている。しかし、これはこじつけ以外の何物でもありません。確かに「行動的禁欲」は上で説明したように利潤を“投資”することを意味します。しかし、それはあくまで“救済”を得ることを前提にしたものであったはず。ギャンブルはそれを前提にしているでしょうか?一発逆転を狙うのも救済とは考えられなくはありませんが(笑)、それは生・老・病・死から来る悩みとは根本的に違いますね。

 もし、この著者がギャンブルを肯定したいのであれば、むしろ『論語』を引用すべきだと思います。そこで次に紹介したいのが、谷沢永一氏と渡部昇一氏が対談した『人生は論語に窮まる』(注4)という本。この本には“博打”という項目がありますが、ここで語られている内容に比べると、先の『ビジネスに生かすギャンブルの鉄則』は格段に深い洞察がなされています。もちろん、この本は孔子全般についての本であって、ギャンブルの本ではないので、当然といえば当然ですが。

 いずれにせよ、これらの本は3冊1セットで読むことをオススメします。そして、いずれこれらの本を読んだ人の中から、ビジネスだけでなく国家のリーダーとして活躍する人材が出てきてくれれば、紹介した甲斐があろうというものです。



 注1・・・かつて、城南電機の経営者であった故・宮路社長がパチンコの必勝法を尋ねられた際、「パチンコに勝ちたければ、パンチラなんて気にするな!」と答えたが、行動的禁欲とは正にこのこと。“救済”を前提としていないって?細かいことは気にしない(笑)
  注2・・・だったら初めから利潤を否定すればいいじゃないかとも思うが、恐らく、もし初めから利潤を否定してしまったら、その元である労働自体も否定することになりかねない。よって、まず利潤を肯定して労働を可能とした後、利潤を否定して労働の形態を残した ーつまり、現在の生活を変えずに修業を可能にしたー というのが、本書にはないワタクシメの考え。なんか刑法みたいやね。
   注3・・・本書のp.126を参照。
   注4・・・鷲田小彌太先生は、いろいろなところで『論語』を扱った本について書いているが、ついぞこの本のタイトルを目にすることはなかった。紹介したくないくらい重宝してるってことですよね、先生(笑)